7月5日、私たちの愛するおばあちゃん、はるばあさんが永眠されました。

満105歳、享年106歳。

享年というのは、お母さんのお腹の中で生を受けたときから数える歳なのだと、昨夜のお通夜で和尚さんが仰っていました。

昨年の暮れに沼田市最高齢になったはるさん。

42年間、学校の先生でした。私たちにも沢山の事を教えてくださいました。私たちが最後の生徒でしたね。

 

最後の夜、駆けつけてくれたご家族は総勢で15人以上だったかと思います。

夜、遅い時間でしたが、内田病院の当直の先生、訪問の看護婦さんも来てれました。

看護婦さんと私と、ゆうハイムの当直スタッフ、そして9人兄弟のうちの娘さん全員で身体を拭き、浴衣に着替えるお手伝いをしました。

そして最後のお化粧を、口紅や頬紅の色を選びながら、娘さんたちがしてくれました。

完全看護の病院にいたらなかなかできない、最後のゆったりとした家族でのお見送りの時間です。

ここで看取ることができて良かったなと感じました。

 

はるさんが、ゆうハイム・くやはらに来たのはもうすぐ100歳になる頃でした。

あちこちの施設を気に入らずに退居し、最後は娘さんが自宅にお連れしたそうですが、100歳になるおばあちゃんの娘さんは、娘と言っても高齢です。

とても自宅で寝たきりのおばあちゃんの介護はできません。

ゆうハイムにお越しになったときは、娘さんは憔悴していました。

介護付きではなく、住宅型のゆうハイムにはお元気な方が多いので、100歳になる寝たきりのおばあさんの入居は私にも戸惑いがありましたが、なんとか試して欲しいというご家族の要望もあり、「お互いどこまでやれるか試してみましょう」というのが、最初の出会いでした。

その後「もうどこにも行かないよ」と言って、気に入ってくれたはるさん。

 

ゆうハイムで暮らし始めてから1年くらいたった頃、肺炎になり体調が悪くなったことがありました。

先生に入院を勧められ入院しましたが、慣れない場所とスタッフに混乱して点滴を引き抜き、「帰る帰る!」と大騒ぎして、結局治療にならず、病院からも退院許可がおり、治癒しないまま帰ってきました。

ゆうハイムに帰ると、気持ちも落ち着き、自分のお部屋で訪問の看護婦さんに点滴してもらい、静かに治療することができました。

でも、しばらくは私の顔を見ると「あんたが病院に入れたんだろう!」と怒ってプリプリしていました。 その時に、「もう二度とどこにもやっちゃ嫌だよ」と手を握ってお願いされました。

体調が崩れるたびに、入院治療への迷いもありましたが、その時の約束が守れたこと、今振り返っても嬉しく思います。

 

高齢者は皆さん、昔話をよくされますが、はるさんはほとんど昔の事は話しませんでした。

それよりも、今日は何をして過ごそうか、編み物にしようか、オセロにしようか、いつも未来に向かって過ごしていたと思います。

それが長生きのコツなのかもしれません。

 

よくルービックキューブをベッドの上でカチャカチャといじっていました。 私がインターネットで検索して6面揃えて見せた時は、本当に目をまん丸にして驚いていました。

同時に悔しがってもいました(笑)

 

オセロも強く、スタッフはよく負かされていました。 でも、いざ自分が負けそうになると白と黒をいきなり交代したりして、こりゃこっちには勝ち目がないと笑ったりもしました。

 

編み物が大好きで毎日お手玉を作って沢山の人にお土産で配りました。

若い人がしていた髪飾りのシュシュを見て、見よう見まねで編んでくれた事もありました。

お手玉をしながら「100年前は上手だったのに」と呟いた時は、気の遠くなるような年月に皆でため息をついたものです。

お手玉の毛糸や、中に入れる鈴がなくなった時は、今すぐじゃなきゃ嫌だとワガママをいい、よく100円ショップまで買いに行かされました。

 

時々は短期記憶が曖昧になり、息子さんや娘さんが来てくれた日でも「最近誰も来てくれない」と言いながら嘆き、飴玉を口にたくさん詰め込んで「死んでやる」と、我々をヒヤヒヤさせたこともありました。

今年の5月には小さい頃に飲んだ白沢町の湧水を差し入れにもらい、「寿命が延びた」と嬉しそうに言っていました。

 

身近にいたので、本当に寂しいです。

お通夜では肩がひっくひっくとなるほど泣いてしまいました。

今朝は目がすっかり腫れて蒸しタオルと冷たいタオルとで交互にあててみましたが、まだ腫れたままの瞼です。

 

学生時代、3年間一緒に過ごしても別れが寂しいのですから、お盆もお正月も何年もずっと一緒に暮らしてきた人がそこにいなくなり、もう二度と会えないというのは、本当に寂しいです。

 

お通夜で泣きながら、「見送ってばかりの仕事は嫌だな」としみじみ思いました。 でも、同時に「人生の最期に関わることができるというのは、とても貴重で尊いことだな」とも思いました。

 

最後までしっかりしていたはるさん。 亡くなる二日前に「大好きよ」と耳元で言うと、くしゃくしゃの笑顔でニッコリと微笑んでくれました。

 

きっと明治生まれの方とはもうお会いすることはないでしょう。

激動の時代を生きてきたと思います。

沢山の生徒さんの良きお手本だったと思います。

そして9人のお子さんのいいお母さんだったでしょう。

本当のお孫さんたちにはもちろんですが、私たちにも本当にいいおばあちゃんでした。

 

いたずらっぽい笑顔が忘れられません。一緒に過ごせたこと、私たちの宝物になりました。

 

心からご冥福をお祈りしています。

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